佐賀県の樹木葬は 常照院 佐賀樹木葬墓地

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寺院概要

 

所在地 佐賀県佐賀市本町町鹿子1206-3
名 称 妙光山 常照院
宗 派 日蓮宗
創建年 1429年(永享元年)

住職ご挨拶

佐賀樹木葬墓地の建立に当たり一言ご挨拶申し上げます。
現在の日本社会は少子高齢化が急激な速度で進んでいます。特に少子化の影響として代々家を継承してきた跡取りが減少し、核家族化の拡大の影響もあって、菩提寺にある先祖代々の墓石を維持することが困難になりつつあります。
その結果、離断を申し出られる檀家様も徐々に増加しています。
江戸時代より確立されてきた檀家制度が徐々に揺らぎ始めました。
また、若者の寺院離れや直葬など、葬儀の形の変容も著しくなっています。このような時代の変化の中で拙僧も今後の寺院経営の難しさに直面していました。
そのような中、この度佐賀美石様のご協力もあり本院において樹木葬墓地を開設する事となりました。
今後の新たな供養の形として皆様方のご理解とご協力をいただけましたら幸いに存じます。

歴史

永享元年(1429年)9月、肥前国小城郡主千葉氏の戚臣で、当地の領主であった石井越後守兼式部大輔忠國(千葉介の玄孫)が、開山に本国寺門流本立院日字上人大徳を招聘し、開基したと伝えられている。創建当初は「本善寺」と称した。
創建当初、石井氏は、小城郡主千葉氏の吏僚であったため、千葉城下の石井屋敷を本拠としていたが、忠國は千葉家中で立身し、家老に出世し、当地に所領を得て、嫡男式部大輔忠保の代に、当地に土着。本善寺付近にあった飯盛城に本拠を移転させたため、当山も益々発展した。
忠保の曾孫兵部少輔常延の代の元亀元年(1570年)、飯盛城を拡張するために、本善寺を集落の南方に移転させたが、天正8年(1580年)に常延の逝去に際して旧地に復した。
その後、石井氏屋敷の佐賀城下への移転、かつ知行替えにより当地を去ったことから、寺は一時期衰退した。
元和元年(1615年)に至り、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が、外祖父常延の菩提を弔うため、寺を再興し、65石5斗の寺領を寄進し、鍋島氏の准菩提寺・祈願寺となした。その際、常延の法名である「常照院殿常祝日教大神祇」に因んで「常照院」と改められた。

逸話

佐賀藩祖鍋島直茂が、正室陽泰院を見染めたのはこの地であるという。寡婦となっていた陽泰院は、婚家を去り、父常延の屋敷に帰っていたが、あるとき、龍造寺隆信が凱旋の帰途、石井氏の屋敷に立ち寄って、昼食をとった。隆信に随行していた直茂は、昼食の準備をする陽泰院を見かけて、彼女の手際の良さに感服する。「そのような機転の利く女性を室に迎えたい」と執心し、その後、しばしば石井氏の屋敷の陽泰院のもとに通ったという逸話がある。石井氏の屋敷に忍び込み、不審者と間違えられ、石井氏の家来に追いかけられたといい、そのとき濠を飛び越えて逃げたところ、斬り付けられ、足の裏に傷を負ったという。この逸話は『葉隠』に記されているが、直茂が飛び越えたとされる濠跡は、周 囲の農地および用水路を整備した際に失われているという。
陽泰院の命日には、藩主の名代として、石井氏の者が使者となって常照院に代参するのが慣例となっていた